仕事のプロ

2016.07.01

徳川家康 「不自由を常と思えば不足なし」

ビジネスに役立つ、戦国十傑の哲学と西洋思想〈その1〉

歴史には数々の英傑たちが存在します。ナポレオン、ガンジー、劉邦…。もちろん、日本史にも。そして、彼らが成し遂げた偉業や金言は歴史書などに記録され、今も私たちと共にあります。それは読み解かれるべきものであり、私たちの生き方に活かされるべきもの。そして、当然ビジネスの場においても、活かされるべきものなのです。私たちが活かしてこそ、初めて英傑たちは息づいてきます。信奉しているだけではNG。無数に英雄たちの言葉を入り口の一つとして紹介します。まずは戦国乱世に生きた武将たちの言葉をひもといていきましょう。

初回は、かの家康から「自由」について手解きしてもらいましょう。
 
西洋哲学でも、古来より絶え間なく「自由」がテーマになっています。
しかし、「自由」なんて本当にあるのでしょうか? 
 
徳川家康の遺訓にある「不自由を常と思えば不足なし」この一文が私の脳裏に、一際強く焼きついています。
全文も紹介しておきましょう。
 
 
人の一生は重荷を負って遠き道を行くが如し。
 
急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。
 
心に望み起こらば困窮したる時を思ひ出すべし。
 
堪忍は無事長久の基。
 
怒りは敵と思へ。
 
勝事ばかり知りて、負くる事を知らざれば、害その身に至る。
 
己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり
 
 
家康の真面目(しんめんもく)といったところでしょう。
福沢諭吉が「リバティ」の訳語として選んだのが仏教用語の「自由」ですが、日本語をさかのぼれば、
 
「自由」とは、「気ままなこと、わがまま」を意味する「放縦(ほうじゅう)」を意味していました。
 
いまやかなり語義あいまいになっていますが、仏教で「自由」とは、「なにものにも捉われない」境地のことを意味します。
 
ですがこの「意味」というものは得てして概念化され、頭での理解を強いられてしまう、
それを避けるために仏家では「自在」が好まれます。
いま、ここに自分自身が在る、ということでしょう。
 
仏教で「自由自在」とともに引き合いに出される言葉が、
「任運自在」これは自分も他人もあるがままに受け入れることを意味します。
絶対の受容です。仏教においては「自在」を強調すべきでしょう。
そして、ビジネスの現場で活きるのも、どうやら「自在」のほうです。
 
「何をやっても自由だ」という命令ほど不自由なことはありません。
 
ビジネスにおいても、選択肢を無闇に増やすことは仲間を迷路に蹴り込むのと同じこと。
「思った通りにできる」は争いのもと、こんな自由は否定されなければなりません。
すでに、「自由な決意で諸事可能であると信じる者は、目を開けながら夢を見ているのである」と
17世紀オランダの哲学者バールーフ・デ・スピノザも釘を刺しています。
「なんでも買える」という自由と、「なにも買えない」という不自由は表裏一体。
その自由はだれのためにありますか? 
フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルにとって自由とは、他者と共有するものでした。これこそ「任運自在」です。
 
「自由」って何でしょうか。
 
我を張らないためにも、我という「型」が要るのです。そうして初めて「自由自在」になれる。
日本語能力だって、まずは型。家族だってまずは型。呼吸にだって型はあります。
さらに私たちは、産まれながら人間という「型」にはめられています。
与えられた「型」を徹底してこそ、あるがままになれる、「自由」になれるのです。
 
仕事だってそうなのです。
 
「型」にはまるも「型」を抜け出すのも「自由自在」、これこそ仕事の出来る人ではないでしょうか。
「型」のマスターについて、17世紀フランスの哲学者ブレーズ・パスカルは「自然は互いに模倣する。
よい土地にまかれた種は実を結ぶ」と助言しています。
 
「不自由を常と思えば不足なし」家康の至言を今一度、復活させましょう。
 
根本的に、私たちは不自由である。そもそも「自分は自由である」なんて思い込みこそが己を縛ってしまうのです。
なんでもできるという先入主こそが、いつまでも埋まらない不足の穴を生んでしまうのです。
それよりもまずは、徹底的に「型」にはまる。その後にきっと、「自由自在」に働ける自分を見出せるでしょう。

大竹 稽 (Ootake Kei)

作家・モラリスト。十六世紀から十七世紀にかけてフランスで活躍したモラリスト(モンテーニュ、パスカルら)が主な研究対象。これまでの論文のテーマは、サルトル、ニーチェ、バタイユなど。「自己」と「生死」についての究明が生涯の課題である。世田谷区の九品仏で親子向けの哲学道場を開いている。

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